2015年7月5日日曜日

「koryuの補足メモ帳」 第四回 曲作りに必要なもの(前編) ~適当な曲、「私の曲」~」

「PBMの会」音楽技術担当のkouryuです。今回も前回に引き続いて音楽ネタでお送りします。
「初心者の曲作り」を主題にしているPBMの会ですが、わかっているようで意外とわかっていないのが「初心者と音楽経験者のどこが違うのか?」という点です。今回はその辺りに焦点を当てつつ、曲作りのためには何を意識するべきかについて紹介します。(注:特定の理論・学説に基づくものではないので、あくまで個人の意見としてお読み下さい)

●実は簡単な曲作り!?
 曲を作る、というと特殊な作業のように思う人もいるかもしれませんが、子供時代にピアノやバイオリンなどの音楽実技教育をしっかり受けた人種にとっては、実は大して特別なことでもありません。専門知識や技術が必要なのはむしろ伴奏(あるいは合奏)作りの部分であって、主旋律(メロディ)に関してはいわゆる作曲法を知らなくてもそこそこ何とかなるものです。たとえば、
「30分の間に8小節のメロディを作れ。出来は問わない」
と命令したとすると、「教育済み」のメンバーの大半はあっさりと作ってしまうでしょう。5分以下で済ます人も少なくないはずです。実際にこの文章を書くに当たって筆者の周囲の「できる」面々に改めて確認してみましたが、「まあ、本当に何でもいいなら作るけどさ。ただし完成度は期待するな!」というのが標準的な反応でした。
 では音楽教育を受けた人々は、揃って特別な才能の持ち主ばかりなのでしょうか?
 そんなはずはありません。例えばこの文章、我々が普段読み書きしている漢字仮名交じりの文章ですが、これは日本語を学ぼうとする外国人が揃って頭を抱えるレベルの強烈な難度のシロモノです。ですが小中9年間の義務教育を受けた誰もが当たり前にこれを使いこなす……そう、これは「難度が高くても、きちんと教育を受ければ皆ができる」種類のものであり、歌唱や楽器の演奏も基本的にはそれと同様のものだからです。
「機会がなかったから出来ないだけだ。全員が同レベルの音楽教育を受けていれば、やはり大半の人が簡単なメロディは作れる域に達したはずだ」
 これが筆者の意見です。
 しかし一方で、その「できる側」の人たちに単純に「作曲せよ」と言っても、「やったことがない」「できない」と即答されるという事実があります。その気になれば30分以下でメロディを作れるにも関わらず、です。
 ではここで前の「命令」を読み返してみましょう。
「30分の間に8小節のメロディ(旋律)を作れ。出来は問わない」
 そう、ポイントはこの「出来は問わない」の一言です。音楽の素養がある人々にとっても「適当に作れる曲」と「自信のある曲」は思いっきり別で、要するに前者はまともな曲とはみなされていないのです。

●経験者式データベース
 では、彼らが「出来は問わずに適当に作った曲」とはどんなものなのでしょうか?
・ありきたりな曲、平凡な曲
・当たり障りのない曲、耳に残らない曲
・どこかで聞いたような曲
・実際にどこかで聞いた曲(だなとうっすら思いながら「まあいいや」で作る)
 だいたいこんなところです。
 これらは要するに「頭の中のデータバンクから適当に取り出した曲」です。「××の素養」と言った場合、その意味するところの7割は「××に対する知識量」と言い換えてしまえますが、音楽教育を長年受けた人々は頭の中に相当に高度な音楽情報をため込んでいます(注:あくまで一般層との比較。プロはまた別レベル)。曲の数すなわち「量」よりも「質」の違いのほうが重要です。その違いの一例を挙げましょう。
「経験者は、聞き取った曲を単なる『録音された音声』としてではなく、五線譜化して音符単位に落とし込んで整理して記憶する」
「はぁ?」と思うかも知れませんが、「教育済み」でかつ一定レベルの音感を持つ者は、ほぼ確実にこれをやっています。一番近いイメージで言うと、一般人の曲の記憶が
「手書き文章をスキャナで読み込んでそのまま画像化した状態」
であるのに対し、素養のある人々の曲の記憶は
「画像からOCRで文字・単語を読み取って文字情報に置き換えて、いつでも編集できる状態」
にまで整理されているのです。しかもほぼ無意識、入力即変換で保管まで全自動です。当然ながら切り取り・切り貼り・合成改変、なんでもござれです。そしてこのたぐいの融通の利くデータが大量にある状態で「適当に8小節を埋める」のは……いわばカット&ペーストの延長なので、決して難しい作業ではないのです。

●プライドと独創と
 ではそんな彼らにとって「作曲」であるか否かはどこで判定されるのか。「作曲家(ボカロP等含む)」とは何が出来る人なのか。
 それはこれもよく聞く言葉、「独創性」であり、そして「完成度」です。たまたま耳にした者が振り向いて聞き入るような独創的なフレーズに、それを支える曲全体の完成度。これを備えた曲を作れる者のみが経験者たちから「作曲家」と呼ばれます。逆に言えば、彼らが「作曲はできない」と自ら言い切るのは、自分たちと作曲家の間にある溝の深さを明確に理解しているからであり、また同時に経験者としてのある種のプライド故とも言えるでしょう。こんな感じです。
 (1)オリジナリティがあり、人に聞かせられる完成度のもの以外は曲とは呼べない
 (2)適当に作ったありきたりな曲など、恥ずかしくて「私の曲」として人前には出せない
 (3)だから私は「作曲ができない」
 ただ、彼らがそう自覚しているということは同時に、
「高度な脳内音楽データベースは、作曲家になるための前提条件ではない」
ということでもあります。実はここに作曲初心者が食い込む余地があります。音楽教育で身につく能力と、「作曲家」として認められるための条件はまた別で、後者については初心者でも可能性があるということです。
 先ほどの二要素で言うと、音楽技術の習得が前提条件の「完成度」については当然「データベースの存在=アドバンテージ」なのでそのハンデを背負った初心者には「頑張って」と言うしかありませんが、「独創性」についてはありきたりの音楽学習から離れたところからも誕生します。
 では音楽教育では必ずしも身につかない「独創性」、これはいったいどこから出てくるのでしょうか?

~後編に続く~