2015年9月13日日曜日

「Forgerの備忘録」 第7回 無神論者は仮想天使の夢を見るか?

 Forgerです。9月5日に、「マジカルミライ2015」(http://magicalmirai.com/2015/)へ当会の主要メンバーで行ってきました。という訳で、学術分析担当の観点から私見を述べさせて頂きます。

 結論から言えば、今回のイベントは、「ボーカロイド」という「協創されたカリスマ」を象徴とする「集合的沸騰」により「聖なるもの」を顕現させる「現在進行形の神話」である、と言えます。

 では、順番に説明していきましょう。

まず、「カリスマ」(ギリシア語: Χάρισμα、ドイツ語: Charisma)とは、預言者・呪術師・英雄などに見られる超自然的資質のことを指します。そして、この資質を持つ者による支配を、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは「カリスマ的支配」と呼び、「支配の三類型」の一つとしました。

 ただし、私がウェーバーと見解を異にするのは、「その資質が特定の個人に内在するもの」ではなく、「『個人に内在する』と社会的に構成されたもの」と考える点です。言い換えるならば、ある人物がカリスマとなるのは、その人物が特殊な資質を持っているからではなく、「周囲の人間がその人物にその資質があるかのように振る舞う」からだということです。

 従って、「その人物に本当に特殊な資質がある必要はない」でしょう。それどころか、「その人物が現実に存在する必要すらない」と理論的には言えることになります。

 今回のイベントで顕著な例を挙げるなら、9月5日の昼公演で、機器の不調により、鏡音リン・レンの映像が曲の途中で消えたことを「リンとレンが緊張のあまり曲の途中で倒れ、楽屋に運ばれた」という「説明」が考案され、共有され、観客がそのように振る舞ったという事象です。

 つまり、「ボーカロイド」とは、その「存在」と「資質」を含めてイベント運営側と観客が「協力して創造する」、「協創されたカリスマ」だということです。

 次に、「集合的沸騰」とは、フランスの社会学者エミール・デュルケームの提唱した概念で、宗教的儀式等の中で生じる人々の熱狂状態のことです。そして、この現象は宗教に限らず、ライブやスポーツなど、ある種の「カリスマ」を大勢のファンやサポーターが前にした時にも見られます。

何故なら、このような集合的陶酔状態は、人間が集団的行動に没入する際に必然的に生まれる社会的現象であり、そのような非日常的状態こそが、日常的状態である「俗」から区別される「聖」であり、宗教の基盤となる現象だからです。

 今回のイベントで印象的な事象を挙げるなら、観客たちが振るLEDペンライトやケミカルライトの動きが徐々に同調していき、会場全体が一つの熱狂を孕んだ海となり、曲のリズムとボーカロイドのダンスに合わせて光の波が揺れる独特の時空を構成した瞬間でしょう。

 つまり、「ボーカロイド」という「協創されたカリスマ」=「象徴」に陶酔的に参加することで、見知らぬ者同士であるイベント運営者と観客、観客と観客の間に不思議な「絆」が生まれ、「ボーカロイド」という「憑代」に「聖なるもの」としか呼びようのない何かが顕れたのです。

 最後に、「神話」とは宇宙開闢や神々、英雄などの「聖なるものについての物語」を指します。スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングは、すべての人間は、生まれながらの心理的な力(psychological force)を無意識に共有する(「集合的無意識」)と主張し、これを「元型」(archetypes)と名づけました。そして、異文化間の神話に見られる類似性から、この「元型が表現された一つの形態が神話だ」と論じました。

 さらに、通常の場合、「神話」とは「始原」、即ち「歴史以前の事象」を指すことが多いです。実際、多くの社会において、神々や英雄が跋扈する「神話」と、人々が織りなす「歴史」とは区別されます。

 そして、「祭り」とは、その「『神話』を『儀礼』として象徴的に再現すること」を指します。その「祭り」の中では、「神話」という「始原」が「聖なるもの」として顕現し、参加者に共有されることで「共同体」が活性化し、その「絆」が強化される訳です。

 今回のイベントで象徴的な瞬間を取り上げるなら、アンコールのラスト、「ハジメテノオト」を初音ミクと一緒に観客全員で歌った瞬間でしょう。その歌詞が想起させる「初めての音」というイメージが「始原」という「元型」を活性化させる最中、「聖なるもの」そのものと化した「初音ミク」と共に、ボーカロイド黎明期の「名曲」をコンサート会場において、観客全員で陶酔しながら合唱する。

 つまり、「ボーカロイド」を統合の象徴とする共同体の黎明期という「始原」=「神話」を「合唱」という形で儀礼的に再現し、「協創されたカリスマ」に「聖なるもの」が顕現することで、「素晴らしいコンサート」という新たな「神話」を生み出すということです。

 このように、大学で宗教学を専攻した私にとって、今回のイベントは非常に興味深い事象に満ち溢れた、知的興奮を誘うとても楽しい経験でした。次の機会があれば、フィールドワークを兼ねてまた参加したいものです。

「koryuの補足メモ帳」 第五回「未だマジカルならざるミライ」

 PBMの会の主要メンバー3名で、9月5日の『マジカルミライ2015』、初音ミクコンサートに行ってきました。「曲作りに必要なもの」の後編はいったん後回しにして、そのレポートをお届けします。筆者ことkouryuはPBMの会では作曲技術を担当しているわけですが、今回はむしろ本業の物書き、文章系創作者(自称)の視点から書かせていただきます。


 9月5日、午後5時半。長い列に並んで入場した武道館で見たのは、当たり前といえば当たり前ですが「普通のコンサートとは違う」光景でした。
 仮設の舞台上には噂に聞くディラッドボード、アリーナ席後方には音響機器のみならずミク制御用と思われる大量のコンピュータがずらりと並び、良くも悪くも違和感を醸し出しています。さらに舞台脇のスクリーンではクリプトンやその他のボカロ関係の宣伝CMが流れ、「ああ、やっぱりバーチャルアイドルのコンサートなんだな」という感じでした。
 やがて定刻になると会場が暗くなり、会場の皆が一斉に立ち上がってサイリウムを振り始めます。「よく教育されているなあ」と思いつつ、とりあえず自分もサイリウムを振っているうちに耳に飛び込んできたのは名曲『Tell your world』。同時にディラッドボードに初音ミクの姿が浮かび上がり、会場のボルテージは一気に上昇します。
「なるほど、最初に誰もが知っている定番曲を持ってきて会場を一体化させるのはアイドルコンサートとかと一緒だね。ひねりはないけど演出としては悪くない」
 などと考えつつ、見ていたのですが。
 が。
 そのまま二曲目、三曲目、四曲目とプログラムが進むうちに感じたのは熱狂ではなく、違和感でした。
「何これ?」
 ディラッドボード上でミクが踊り、跳ねる。脇のバンドメンバーのリアル演奏の楽器の音と共に、スピーカーからミクの声が響きます。確かにバーチャルアイドル・初音ミクが「科学の限界を超えて」リアルに降臨したかのようです。
 ですが、おそらくそれ故に思ってしまいました。
「別に、これなら人間のアイドルでもいいじゃないか」
 …………。
 …………。
 …………。
 書き遅れましたが筆者は初音ミクのコンサートは今回が初めてで、過去の映像をニュースや動画で多少見ていたのと、あとはkanikanさんからあれこれ聞いていた以外は大した前知識無しでの参加です。そして少なくともコンサートの前三分の一に関しては、筆者が無意識に抱いていた「バーチャルアイドルのコンサート」への期待をきれいに打ち砕くものでした。
 いや、技術的にすごいことをやっているのはわかります。
 というか、二次元画像をあれだけうまく立体的に見せ、さらにその中身であるいわば「電子人形」を違和感がないレベルで人の動きに似せて操るのに、想像を絶する手間暇と苦労があるのは実感ベースでわかります。
 でも、結局やっているのは「人間の真似」?
 それなら人間でいいじゃないか。
 そう、人間のように踊って、人間のように歌って、人間と完全に同じ土俵で勝負するなら、長丁場のなかであれこれ起伏を設け、演出を考えて全体を構成する「普通のアイドル」のコンサートの方が格上だ。(加えて当然、「ナマモノならではの迫力」もある)
 人間のマガイモノが人間を真似ても、所詮は劣化コピーにしかならない。人外を主人公に据えるなら、人外ならではの在り方、見せ方、魅せ方というものがあるだろう?
 いや人外オリジナルとまでは言わない、たとえばMV(ミュージック・ビデオ)というものがある。あれでやっているようなイメージ中心の謎演出をこの舞台でリアルタイムで見せたらどう? まさに「今宵一晩限りの夢舞台」として!


 とまあ、好き勝手ばかり言いましたが、おそらく本来、このコンサートは「架空の歌姫、共同幻想の象徴たる初音ミクが現実(リアル)に降臨した!」という事実自体に熱狂し仲間との一体感に酔いしれることができる人たち、つまりはファンに捧げられた祭りの場なのでしょう。それはそれでまったく問題はないのですが、しかし内心でそこを単なる通過点と見てその先を求めていた筆者にとっては、前述のようにいろいろと物足りない印象がありました。ただし中盤から後半にかけての幾つかの曲目、具体的には『ロミオとシンデレラ』あたりからはディラッドボードの上部に掲げられたスクリーンの映像とのコラボを始めて、そこからは割と楽しく見られました。「悪くないけど、自分だったら映像の下半分をディラッドボードの背後に入れて2D/3Dのコラボを狙うよなあ。あ、でも武道館だと三階席まであるから角度的に無理があるか」「歌詞が聞き取れないなあ(注:場所が右側スピーカーの前で、楽器の音にミクの声がかき消されがちでした。位置取り重要です)、やっぱり画面に表示してもらったほうがいいなあ。歌詞が踊り出してディラッドボードに飛び込んでミクと遊ぶとか面白そうだなあ」などなど、妄想を膨らませながらですが。


 このコンサートの題名は『マジカルミライ』ですが、文章媒体(主に小説)には「魔術的リアリズム」という言葉があります。作品世界に現実世界にはない架空の法則を放り込み、それをご都合主義抜きで厳密に運用し作品世界内で展開することで生まれる一種異様な迫真性、架空のリアリティのことです。
「本物(リアル)ではないが独自のリアリティがある」
 個人的に初音ミクが、というよりバーチャルアイドルが目指すべき当面の領域はここではないかと思っています。残念ながら今回のコンサートはマジカルなリアリズムに満ちたミライを、少なくとも筆者には見せてはくれませんでした。しかし、そうなる可能性もまた十分に見ることができました。ファンが初音ミクを応援し続ける限り(そして開発を続けられるだけの売り上げを出し続ける限り)、いずれは技術の進歩と演出の工夫がこのミライの扉を開いてくれることでしょう。
 そしてその時が、初音ミクというバーチャルアイドルが「これまで存在したことのない新たなジャンルの総合デジタルエンターテインメント」への昇華を遂げ、一般層にも広く認知され評価される時でもあるのだろうと、そんな風に思います。


(終)


[以下、余談です]
 演出における筆者の好みは「虚実、真贋の定かならぬもの」で、アニメだと『カレイドスター』や『マジカルエミ』がお気に入りと言えば、わかる人にはわかっていただけると思います。プロレスなんかもこの範疇に入ります。ちなみにバーチャルアイドルとしてよく言及されるシャロン・アップル(『マクロス・プラス』)は筆者に言わせれば逆効果の無駄演出が多くて不可(あとAIが人に惚れるな!)。
 魔術的リアリズムについては、『ジョジョの奇妙な冒険』の第三部について書かれたある漫画評が、読んだことのある人にはわかりやすいと思います。
「これはこれで面白いが、第一部・第二部に見られた魔術的リアリズムが失われつつあるのが残念だ」
(注:波紋=「架空のリアル」。スタンドになると一芸ネタのご都合主義の産物)

「蟹缶の弱音ハクなボヤ記」 八言目:マジカルミライ2015に行ってきました    「Packaged」から「Tell Your World」「Hand in Hand」へ

 9月5日、マジカルミライ2015に行ってきました。
開催場所は日本武道館。あの日本武道館ですよ。マジで日本武道館ですよ。
「初音ミクの武道館ライブを描いてみた・http://www.nicovideo.jp/watch/sm1121675
「初音ミク 1st Live 「Packaged」 追加公演・http://www.nicovideo.jp/watch/sm1394733
で「Packaged」の曲と共に描かれた夢想は8年で現実となりました。


 会場には老若男女国籍を超えて様々な人達が集まりました。
2010年の「ミクの日感謝祭」のおっさん率の高さからは雲泥の差です。
9月4日のライブではキャロライン・ケネディ米国駐日大使が来場されていたとか。
次は秋篠宮悠仁殿下が来場されるくらいあり得る勢いですね。


 さて、今回の武道館のライブで規模の拡大はひと区切りにして良いと思います。
ドーム公演や、ロックフェス参加等々純粋に規模を拡大する方向から視点を変えたライブを指向する時に至ったと思うのです。


「初音ミクとは、新たな創造のあり方の象徴であり、作品を介した人と人との出会いを祝福する女神である。」


 これはミクさんが雑誌表紙を飾った、建築知識・2012年9月号(No694)の巻頭コラム「ミクと建築のミライ」の一文です。
私はこの一文に非常に深い感銘を受けました。
まさしく“初音ミク”という存在を的確に表現していたからです。


 今のマジカルミライに欠けているもの、それは「人と人との出会いを祝福する」ことだと私は感じています。
今回のマジカルミライの展示関連はワークショップ、ホールイベント、企画展の3つに大別できます。
このうち無条件で参観できるのは企画展のみですが、これもほぼ企業の物販&サンプル展示で構成されていて“創作文化の体験”を謳うには内容が薄いと感じました。


 もっと来場者が能動的に参加できる仕組み、例えば他の来場者と交流しなければクリアできないゲームを仕掛けるとか、リレー楽曲作成とか楽器の体験コーナーを用意するとか。
もちろん予算やスペースや機材、担当スタッフの確保という限りあるリソースをやりくりする課題がありますが検討する価値は十分にあると思います。


 また、ライブでは初期の頃のようにボカロPさんの出演や13年のマジカルミライのように中の人達の前説、そしてライブ中のバンドマンとミクさんの絡みを復活させてほしい。
今回のライブはバンドマンとミクさんがきっちりと別れている印象でした。
見ていてなんだか寂しい。


「初音ミク」という主体は存在しません。
「初音ミク」という存在は彼女を取り巻く人々の影絵です。
「初音ミク」のライブに集った人々が彼女を存在させているのです。
「初音ミク」を構成する人々が集まり、構成する全ての人々に感謝を捧げる場所。
「初音ミク」のライブに“観覧者”なんていない、必要ない。
「初音ミク」のライブという場に集った人々でライブを創る。
「初音ミク」のライブとはそのような場であって欲しいと思っています。


ライブ終了と共に上がる「ありがとう」の声はそんな意味を持っていたはずです。


 個人的に創作を楽しむ「Packaged」から、世界レベルで繋がり、創作文化を育て、その一翼を担っていることに誇りを感じる「Tell Your World」「Hand in Hand」へ。

 今こそ、その転換期ではないでしょうか。